TAKST の雑念所

週2は何かを書くということを目的に、思いついたことを何か書きます。

科学は科学であるが、宗教でもある。また、科学を科学であると判断するためには科学的な素養が必要である。

書きたいことはほぼタイトルに書いてしまった気がしますが、自分の考えを詳細に言語化する意味合いで書いてみようと思います。まずは要旨は以下。

  • 科学は科学であるが宗教でもある。個人の道徳や判断基準、倫理観を整形し得るものが宗教や文化と呼ばれるものであり、科学にもその効果があるからだ。
  • 一方で、本物の化学と似非科学は判断が難しい。似非科学を信じることも有害だが、科学を似非科学と判断することもまた有害である。
  • 科学を正しく科学と判断するためには、科学的知見・素養が必要であり、それはある程度、科学に触れたことがない限りは難しい。

さて、ここから先は思いつくままにキーボードを叩いてみよう。皆さんは "科学" と聞いて何を想定されるだろうか?厳密に言うと、"科学" というものの定義は難しい。英語ではサイエンスが科学にあたるわけですが、語源はラテン語の知識という言葉にあるらしい。wikipedia なんかも参照してみると、なるほど確かに、基本的には "体系化された知識" とも言えるし、"物事を説明するもの" とも言える、とは思います。ただ、いかんせんこの世の中は理解しているようで、できていないことが多すぎるのです。よって、"物事を説明する" = 科学という定義はちょっと乱暴が過ぎるんじゃないかなぁ、と。

例えば今はコロナウイルスが世界中で猛威を奮ってるわけですが、ウイルスそのものについて、少なくとも僕個人は正しく理解できている気が全くしません。ウイルスって有害なものばかり取り上げられるので、悪いもの、恐いものという認識がありませんか? でも実は、そうでもないらしいんです。細菌の中でも常在菌と呼ばれる人間と共生している最近が多数ありますが、ウイルスに関してもどうにも人間と共存していて、かつ、人間にとって一定のメリットを与えているものもあるらしい。(ヘルペスウイルスと疲労の関係性の研究で脚光を浴びている慈恵医大の近藤医師が発信されている情報を読んでいただくと、ウイルスというのも奥が深いんだということが垣間見ていただけるのではないかと思うので、これはこれで是非。)

ここで述べたいのはウイルスそのものの話ではなく、ウイルス学も深淵の一端が見えているに過ぎず、10年どころか数年たてば学説がひっくり返るのが当たり前なんだろうなーという点です。

個人的な "科学" の重要な性格は2点あって、一つが "再現可能である" ということ、もう一つが "誤りと訂正を受け入れる" ことにあります。前者は誰が行っても同じことが起きるということ。その再現条件が複雑であったり、日常生活に活かすには現実的でない場合も多々ありますが、条件さえ整えれば、他の誰が行っても同じ結果が担保されているということが科学の一つの定義だと思ってます。もう一つが、反証する内容が提起された場合、それが確かであれば、それを受け入れて次に進むということ。つまりは科学的であるというのは、自分が全知全能ではなく、根本的に無知であるということと、自身の知識は条件付きのものであるということに自覚的であるということが必要だと思うわけです。そのため、新しい発見や、新たな条件が見つかった場合でも、それが正しそうであれば受け入れる。

この2点が科学を従来の宗教との大きな隔絶だと思ってます。宗教はそれぞれの宗教で教義があるわけですが、再現性は担保されていませんし、絶対に否定されない何かが根本にあったりするので。

一方で、科学に宗教的な要素がないか?と言われるとそういうわけでもないと思ってます。数世紀前と比較して、今の人類は従来型の宗教を信仰している人は多くはないでしょう。いずれかの宗教を信仰している人で、宗教行事を行うことがある人でも、自覚・無自覚問わず、科学によって生活や思考が律されている部分が多かれ少なかれあると思うのです。古来の宗教は道徳やルールを定める基準でした。人間が一定数集まって社会を構成すると、何らかのルールやガイドライン、道徳が必要になります。(強力なカリスマ性のある王がその役割を果たすこともあったでしょうが、個人に依存した社会はその個人が喪われると崩壊するので、結果的に個人に依存しない社会が生き残り、その多くが何らかの "宗教的なもの" を持っていたということだろうなーと個人的に理解しています。) 一方の現在、多くのルールやガイドラインは科学的な知見を根拠にしています。個人個人の考え方についても、理科や社会で学んだことを基準にしていることが多々あるでしょう。ということで、従来は宗教が担っていたことを科学がカバーしているわけです。

さて、ここにきて難しいのが、科学と "似非科学" を判断する術の部分です。多くの人が科学を信仰しているわけで、電気や水道の便利さを否定する人は皆無でしょう。ただ、より細かく・新しくなってくると難しくなってきます。よく話題になるのは、ワクチンが有益か有害か、ビーガンという生活スタイル、再生エネルギーと原子力の関係、ホメオパシーが医学と言えるか否か、あたり。新しい科学になればなるほど、厳密性は薄れます。特にワクチンは難しいところでしょう。mRNA 自体の研究は30年以上の歴史があるので有効性は確かだと思いますが、人間に接種して80年経過観察してどうか、は観察実績がないので、新型コロナウイルスに感染した場合の重症化リスクを踏まえて、10歳以下の子供に接種するかどうかを悩む、というのは理解できます。一方で、新型コロナウイルス騒動にビル・ゲイツも持ち出した陰謀論や、ワクチン接種後に1年でゾンビになるとかその手の話は論外だと思ってます。しかし、根本的な問題は、何がどこまで科学的で、どう判断すべきか、という科学的リテラシーが強く問われてしまう事態になっており、このリテラシーの平均値や中央値がどうにも低そうだ、という現実です。

サンプル数が身の回りの1つしかないですが、最近驚いたのが、"整体" を占いや水素水の類と同じ "怪しいもの" に分類している人がいたことです。まぁ、整体師の人の中には理系的思考そのものにアレルギー反応を持っていて、健康になる水を善意でおすすめしてくるタイプの人が一定数いるということも把握はしていますが、整体そのものは体の各所の筋肉のコリや固まった筋膜をリリースすることで、血流促進を促したり、内臓の機能回復を図るというのが基本機能なので、医術的・科学的な再現性があるわけです。整形外科は信じるが、整体は信じないというのは、それはそれで偏った科学信仰だなぁ、と苦笑いしてその場は終わったのですが、これはこれで難しい問題だなーと思ったのです。

科学的な再現性や再現条件、比較するための条件整備、その結果の有意性を判断するための母集団選択や統計的な基準、これらが基礎知識としてある程度備わっていないと、 "新しい科学のような何か" を見たときに、それが科学寄りなのか、似非科学寄りなのかを判断することが難しいんだな、と。そして、この基礎知識を確実に身に着ける術は、ある程度以上、科学的な取り組みを試行すること。まぁ、世の中にはそんなことをせずともこのスキルを身に付けている人も多くいるので、全員が大学の理系学部に行くべき、とまでは言わないんですけどね。とりあえず、皆さんも何か怪しいものを見たときに、その事象・理論の再現性があるか、について気にしてみていただければなーと思った次第です。