TAKST の雑念所

週2は何かを書くということを目的に、思いついたことを何か書きます。

IT 業界における手順書は本質を完全に見失った典型である、大体、コードで書けるはず

今北産業

  • 知ってる人は知っている。IT 業界には "手順書" と言われるものが存在する。
  • 他業界にも存在するが ITIL あたりのプラクティス資格でも、「運用手順書が存在しない作業は行ってはならない」とか扱ってしまったことにより手順書が一部で神聖化されている感がなくもない。
  • 手順書はミスなく誰でも同じことができるようにする、が目的で、今では大半の作業がそれをコードで書くことで実現できる (Infrastructure as Code, IaC) のに、頑なに手順書にこだわる層がいる。なぜ?

さて、忙しさにかまけて数日サボってしまったので、今日は書こうと思う。と言いつつ、忙しさのピークは抜けてないので、これはこれで現実逃避と言えなくもない。今日書きたいのはなんで日本で IaC が定着しないのか。というか、いまだに手順書がでかい顔しているのか、という話です。

別に IT 業界に限定せずに手順書や運用マニュアルのようなものは存在すると思うのです。そして、誰もが簡単に繰り返し実行できる運用手順を確立することや、その確立された手順を分かりやすく文章にまとめることはそれぞれが独立したスキルで、どちらも極めて重要ながら身に付けることが難しいということも共通してるかと思います。で、本題。IT業界における運用手順書の話です。仕事上、クラウドの利用を訴求することが多いのですが、未だにクラウドは頻繁に画面が変わるからスクリーンショットや手順の文言の更新も頻繁に発生して、手順書管理が面倒だからまかりならん、とご意見いただく現場に遭遇することがあるんですよね。なんかこれ、本質を見失って、手順書を管理することが半分くらい目的になってるよなーと。運用手順自体を標準化して共有するということが時代や技術を問わずに重要であるということは変りません。ただ、GUI や文言ありきの手順書ってのはどうなのかな、と。クラウドに限定しませんが、最近の技術って大体、コードで叩けるんです。スクリプトとか、コマンドラインとか、API とか、いずれにせよ画面や文言にとらわれずに、直接実行できる内容そのものを記述する術があるんですね。なので、"誰もが、簡単に、ミスなく繰り返し処理を行う" という本質的な目的を考えた場合、GUI なんかさっさと捨ててコードベースで管理すべきなんです。

例えばですが、IaaS VM を立てて、OS をインストールする手順なんか、オンプレで GUI ベースでやると、対象環境に接続するところから、どのアイコンをクリックしてどのボタンをクリックして、どの選択肢を選んで、次はどのファイルを選んで、ということを延々とやっていくわけですが、パブリッククラウドだと aws ec2 run-instances とか az vm create とかで終わるわけですよ。オンプレでも Python でも PowerShell でも使えばよろしい。Terraform とか ansible とか使っても良いですし。

なんかこう、その作業で何の価値を産みだしているのか、という仕事の本質的なポイントではなくて、教えられた業務を完遂することが仕事になっている例ってやっぱり残念だなーと思う次第。自分自身、仕事のための仕事じゃなくて、価値を生み出すことをやってるかを確認しながら日々を過ごせるよう気を付けないとですね。

挑戦が賞賛される環境でこそ未来が切り拓かれる、ただ、正しい "挑戦" と無謀の判断は熟練者でなければ難しい

  • 女子ビッグエアで岩淵選手が3本目にトリプルコークに挑んだことと、それを見て他参加者や関係者が興奮しなが賞賛していた光景が素晴らしかった
  • 皆が競技の本質に集中し、お互いの挑戦を認める状況というのが理想だと思う
  • 皆が挑戦してこそ次のフロンティアが開拓されるとは思うが、"今行う価値がある挑戦" と "ただの無茶・無謀" の判断が難しいなぁ、という感想

羽生選手の4回転Aもそうなのですが、難しい挑戦を行い、それが賞賛される状態というのは望ましいなぁ、と。 特にスノーボードの各種競技は参加者・関係者がその賞賛を前面に出すので挑戦が上手くいかず結果に結びつかずとも、挑戦した側は挑戦したことを誇れるんじゃないかな、と思うわけです。個人的な経験を思い返してみると、アメリカの文化なのか、US のメンバーはどんな変な挑戦であっても、挑戦することに価値があると認め、結果が伴わずとも、そこから得られた経験や学びを拾おうとする姿勢が強い傾向があります。日本人は失敗を嫌うという話はもはや語られつくした感がありますが、それをどこまで一般化するかは微妙だな、とも思いつつ、ちょっとした失敗と信頼の喪失とが一緒くたになって扱われることが多いのは問題だと思います。正しい挑戦は失敗したところで信頼を損なうことはないんですよね。やるべき挑戦は失敗してもそこから次に備えるための要素を拾うことで、むしろ信頼は増えるはずなんです。上手い挑戦の仕方、上手い失敗の仕方を学ぶ機会が少ないのが、多くの日本人が育つ過程での一番の問題だったりするんじゃないかな、と。

また、挑戦って一言にまとめてしまうのは難しくて、正しい挑戦って本当に難しいと思うのです。"チャレンジ" という言葉に丸めて不正会計をやらかした企業を例に出すまでもなく、「リスクを取ってイノベーションを」と口ばかり言う多数の人々を振り返る必要すらなく、上手い挑戦・上手い失敗って難しいんです。そして、これまた重要なのが、挑戦の仕方・失敗の仕方にも経験が要るんですよね。どんな領域・どんなトピックであっても挑戦してみないと、やってみたことが無謀だったのか、簡単すぎたのかというところは分からないですし、挑戦を重ねないと、目標設定や退くタイミングの見極め、リカバリーの仕方の質って上がらない。更に言うと、他のスポーツや楽器等と同じで、無駄に数を重ねても質は向上しないんですよね。無謀なことを山ほどやっても上手くなるわけじゃない。結局のところ、一番重要なのはポストモーテムというか、失敗の振り返り・分析なんだろうなぁ、と。そういう意味で、日本企業のダメな傾向は、失敗を失敗として切り捨てることに加えて、失敗した内容を深堀して次に活かそうとすることがそう多くないことにあるのかもしれません。重ねて言うと、戦後の日本企業に多くの傑出した企業が出てきたのは、社会構造が崩れて、若いうちから色々なことを試して失敗するチャンスが多くの人にあったからだったりするんだろうなぁ、とも。

ということで、いつも以上に思ったことを適当に書くだけになってしまいましたが、自分自身、色々と挑戦しつつ、何がなぜうまくいかなかったかをちゃんと考えるようにしたいと思います。

Next GAFA は日本から生まれないというが、そもそも GAFA どころか強いソフトウェア企業はアメリカ以外からほとんど生まれていない

言いたいことを3行で。

  • イノベーションという言葉を言い換えた DX という単語がよく扱われ、DX と GAFA がよく関係させて語られるが、そもそも GAFA は最初からソフトウェアがビジネスの根幹なので (Apple だけ微妙だが、今の core value は SW)、デジタルにトランスフォーメーションする必要がないことを理解してない人多すぎ。(Microsoft も Tesla も同じ。)
  • デジタル化とか Big Tech とかの話も似たり寄ったりだが、更におかしいのが日本から Next GAFA が生まれないだの、日本企業はやっぱり遅れてるだのという議論。語るなら少しは調べて考えるべき。その手の Tech 企業の大半はソフトウェア企業で、アメリカ企業。日本企業がダメなんじゃなくて、アメリカ一強なだけ。
  • 閉鎖市場の中国企業を除いて、アメリカ以外の強い Tech 企業・ソフトウェア企業ってどこ?せいぜい、ドイツの SAP とオーストラリアの Atlassian くらい? だからアメリカが強いだけだってばよ。

よし、まとめたぞ。後は書きたいように書く時間だ。

イノベーションって言葉、聞かなくなりましたね。イノベーションなんて古いんですよ。今や時代は DX です。凸版です。じゃない、デジタルトランスフォーメーションの時代です。(それはさておき、凸版のあの CM は何か効果があるんだろうか...。) DX は DX でまた今度書くかなーと思いつつ。DX と相性の良い単語と問われて何を思い浮かべるでしょうか?? 1位が AI、2位が GAFA あたりかなーというのが個人的な感触なのですが。本当に表層的なマーケ屋さん用語に良いように使われてるなーと思う次第ではありまして、中でも GAFA と絡めて DX かたる人や記事はそっと閉じて良いと思うのです。というのも、DX ってデジタルトランスフォーメーションですよ? 既存のビジネスをソフトウェア駆動型に切り替えるという用語ですよ?極端な例でいえば、自動車製造業の企業が、自動車販売ではなくて、車は無料に近いコストで出しておいて、その上に乗せたセンサーで収集したデータを売るとか、車の中で使われるエンターテイメントのマーケットプレースで稼ぐようになるとか、その手の話になるわけです。手工業から機械工業に切り替わったのが工業革命、機械工業からソフトウェア駆動型に切り替えるのが次なる変革、というわけです。その例に GAFA を出すのがちゃんちゃらおかしい。だって、Google (Alpabet) も Facebook (Meat) も AppleAmazon も全部、最初からソフトウェア企業です。前者2つは言わずもがな。Apple も最初期こそ HW 主体でしたけど、NeXT 買収して復活したあたりからコアはソフトウェアとサービスがビジネス価値の核でしょう。OS とマーケットプレースです。Amazon だって最初は本屋かもしれませんし、物流能力に強みがあるかもしれませんが、端からインターネットありきの企業で、ソフトウェア前提のビジネスです。デジタルネイティブなんです。GAFA の仲間扱いされる Microsoft も Tetsla も同じ。なんで、DX と GAFA を絡めて話すのはおかしい。(さらに言えば、この各社が DX を語ったり、売ろうとするのも意味が分からん。AWS/Azure/GCP で DX !という売り文句への批判です。)

ただの批判だけ書いても仕方がないので、もう少し、身がある方向に筆を寄せると、日本企業はダメ系の話に持っていきたいと思います。自己批判の精神は健全に動けば成長につながるので、必ずしも否定はしないのですが、それにしても、日本企業は GAFA になれないだの、Next GAFA は日本には無理だの、という日本企業否定記事には一言申したい。よく考えろ、全部アメリカ企業だぞ、と。GAFA ほどの大きさでなくても、大抵の強い Tech 企業はアメリカ企業です。SFDC、AdobeOracle、Splunk、SolarWinds、ServiceNow、Zoom、Slack、ほら、全部アメリカでしょ?強いて上げてもドイツの SAP とオーストラリアの Atlassian (Jira と Confluence の会社)くらい。これらの各ベンダーが提供しているサービスやソフトウェア、ツールの使い方すら日本企業は下手なところが多い、という点は否定しきれないですが、GAFAがーふぁ言って短絡的な自己否定するだけじゃなくて、もっと踏み込んで考えないと、得られる教訓はないと思うわけです。IntelAMDアメリカ、あ、Arm は UK か。無駄に舶来もの信仰主義が顔をだすのが日本人の性のようにも思いますが、しっかり解像度を上げて、何を反省し、何を学ぶべきかを考えましょう。DX の根幹はソフトウェア、ソフトウェアの生まれ故郷と聖地はアメリカなんです。US には歴史的・経緯的に多数の技術者や経験者が居ますし、その技術力の積み上げと人やコミュニティの層の厚さは他国を圧倒しています。さらに言えば、市場閉鎖してコピー企業と政府圧力でウハウハしている中国と違い、アメリカ市場は門戸が開かれているので、日本人を含めて、技術力と熱意・素養を持ったトップクラスの人材は自国企業に見切りをつけてアメリカに移ります。物理的に渡米までせずとも、各企業の自国法人に入るくらいはするでしょう。結果的に、アメリカのソフトウェア企業はより強くなり、他国のソフトウェア技術基盤は継続して相対的に弱まるわけです。

なので、GAFA を仰ぎ見て自己批判したり崇めたりしても仕方がないです。どうすれば日本企業や市場のソフトウェア技術が向上するか?で言えば、短期間的には難しいのが正直なところですが、USの企業に迎合するしかないでしょう。Amazon Japan (含む AWS GK) は自社とユーザーのことしか考えないので論外ですが、他の Google やら Microsoft あたりの日本法人の人たちに好き放題やってもらいつつ、学生たちに英語で最新テクノロジーに触れる機会を増やして中長期的な種を巻いて、更にはスタートアップでもなんでも良いのですが、Top of Top の人材が各社の US 本社や日本法人に移ってしまわないような待遇を準備できるようにすることが必要なんではないでしょうか。

専門家と一口に言ってもその専門家度合にも差があり、その深さを把握できるのは同じ領域の中程度以上の専門家に限られる

書き方が徐々にテンプレ化されてきた気がする。ラノベばりに投稿のタイトルを長くして、書きたい結論を書いてしまう。そして、いつも通り次に要約を箇条書きでまとめようと思う。

  • テレビやWeb等のメディア媒体を問わず、様々なところにその道の "専門家" がその専門トピックを解説していることは多々あるが、本当にその "専門家" が Top of Top とは限らない
  • 一概に専門家といってもその領域で生計を立てているだけの人と、その領域の最先端を走っている人、更にはその領域事態を作り上げたような人までいるわけで、その専門家が述べる内容の信頼性は確かであるとは限らない
  • その "専門家" が「完璧に理解した」レベルなのか「チョットワカル」レベルなのかは専門外の人間には判断できない。少なくとも同じ領域の中程度以上の専門性を持った人間でなければ無理。

さて、ということでここからは思いつくままに書いてみようと思います。自分で書くのもなんですが、本来の自身のビジネス領域では日本国内ではかなり深く知見も持ってますし、一部領域では最先端と言ってよい仕事をしております。まぁ、今、そのような仕事ができているのも、運とめぐり合わせが半分なので、それ自体を自慢しようという気はサラサラないです。で、この状況の副産物として、様々なところで専門家・プロフェッショナルを事象している方々の情報の怪しさや、間違い具合、更に言うと 2ch/5ch の自称専門家の程度の低さに気づくようになってしまった、という点があります。いや、マジで皆、ドヤ顔でフェイク情報垂れ流しまくりなんですよ。そして恐らく、本人はそれがフェイクであるという自覚がない。

直近でわかりやすいところでいえば、新型コロナウイルス周りの情報は分かりやすいでしょうか。特に今回のパンデミック初期にはそのような言説も Web 上で取りざたされてましたが、本当の最先端中の最先端、ないしはエース中のエースと呼ばれる専門家は一番困難な問題解決や何らかの対応に追われるので、Web への情報発信はもちろん、テレビ番組に生出演するようなことはできないはずなんですよ。もちろん、中には感染症病棟の悲惨な状況を伝えることで、世の中に注意を促そうとされていた、本当の現場の最先端から極めた多忙の中でも情報発信を試みていた方々がいらっしゃることは認識してますし、その取り組みには敬意を表します。そういったものではなく、ウイルス学や感染症学の専門家とされる人々の中でも実績が怪しいのに、やたらとテレビに出ている人たちっていましたよね。素人からすると、専門家がそう断言するなら、そうなのかもなぁ、と思ってしまうことを発信されてましたが、眉唾物だと思うわけです。

本職の方での実例を書くと無意味に特定されそうなので、趣味側の方、テニスで例を挙げます。ちなみに、趣味のテニスも無駄に知識は深いので、そこら辺のコーチやプロショップ店員と会話しても中程度くらいには相当すると思います。無駄に英語圏スペイン語圏の情報まで漁ってたりするので。流石に Wilson のシカゴの人とかには勝てっこないとは自覚してますが。

槍玉にあげたい情報はこちら、「ロジャー・フェデラーのグリップサイズは2」です。この情報、日本語の Web ではまことしやかに語られており、テニヲタを見分ける情報の一つになっておりまして、オンライン・オフライン問わず、ドヤ側で語る人が多数確認できます。しかし、この情報のソースって以下のブログしか見当たらないんですよね。

ロジャーフェデラーはグリップ2 | ギア | TENNIS.jp テニス ドット ジェイピー

英語で調べると、4 3/8 だという情報しか出てきません。日本でいうグリップサイズ3の英語圏表記です。

Is Federer's grip size really 4 3/8? | Talk Tennis (tennis-warehouse.com)

グリップ2(4 1/4) という情報が他ソースから一切出てこない。一応、英語圏でもなんで小さ目のグリップサイズなんだ?という扱いではあります。(日本では男性は3の方が標準寄り、と言いつつ2が多い。英語圏では3でも小さい、4以上が多い。) さらにはこのブログの中でもジャパンオープンの会場で真偽を確認しました、という文章しかない。ラケットの実物の画像 (まぁ、プロストックなんて記載フェイクも多いので画像も証拠にならんのですが) もなく、文章での言及だけ。ちなみに、英語圏で色々と探すと、実利用のパーソナルスペックラケットがオークションで売られていたりもしますが、そちらもグリップ3ベースのカスタマイズという情報が主です。 

ATP 大会の運営にかかわることが出来るテニスコーチ、くらいには専門家かもしれませんが、そこまで深い専門性があるわけではない、という例と言えるのではないかな、と。

ということで、結論としては、"専門家" という属性に惑わされずにしっかり自分で考えて、可能なら調べて重要なことは判断した方がよいですよねーという話でした。最近はウクライナ情勢やコロナの話題あたりで怪しい情報が多すぎると思います。

北京オリンピックがつまらない、厳密にいえば、すべて冷めた目で見てしまう

今日もタイトルに書いたことを長文として言語化する作業にトライしてみようと思います。言いたいことは今回もタイトルの通りなんですが、なんでしょう、この北京オリンピックのつまらなさ。競技の内容や選手たちのこれまでの努力と本番での輝きは素晴らしいと思うのです。大した成果は出してないですが、それなりの期間を一競技に費やした経験もあるので、彼・彼女らの努力が簡単に記述できるレベルの質・量ではないことも、本番におけるプレッシャーのかかり九合も尋常でないことも理解しています。なので、選手たちがどうこうという話ではないのです。念のため予防線を張っておくと、冬の競技がつまらんとか、球技の方が観るスポーツとして面白いと思うとか、そういう話でもないです。

 

じゃあ、何が言いたいかというとですね、スキージャンプ混合団体の失格多発のような事態が起きたときに、周辺条件・環境から邪推したくなる情報が揃い過ぎていてダメだよね、ということです。いくつか情報も出ている通り、環境が寒すぎて筋肉の萎縮が普段より強く出たせいで、特に女性の計測に問題が出た可能性も多いにあると思います。ただ、中国共産党がこれまでやってきたこと、また、現在進行形でやってることを考えた場合に、中国の自国選手ないしは友邦であるロシア選手の成績を上げるためなら、それ以外の国の選手を落とすことは平気でやりそうだよなーと思ってしまうわけです。そこまで気合を入れて各競技を観戦しているわけでもないのですが、テレビをつけると何らかの競技が行われているのが目に入ります。そして、どの競技を見ていても、審判や運営側の介入と、その裏の "政治的な力" が脳裏をよぎり、どれもこれも競技に集中して観戦できないなぁ、と。

 

ただ、中国共産党政府の性格自体に文句を言っても仕方がないですし、こんな一市民が何かを言ったところで何が変わるわけでもないので、この事象自体は隅に追いやっておこうと思います。この状況から学べるのは "信頼" ってのがやっぱり極めて重要で、かつ、派生的なところにまで影響を与えることなんだろうな、というポイントです。党政府が実施している情報統制や人種隔離政策はオリンピックの運営に直接関係しているわけではありません。それであってもこれだけ冷めた目で見てしまう。つまりは、信頼というのは積み上げが必要なもので、一度、何かで失ってしまうと、信頼を失った領域だけでなく、他の領域でも信頼が失われ悪影響が生じるもんなんだな、と。そういうわけで、仕事にしても私生活にしても、本業的な領域以外、それこそ意外と小さなところにこそ、ちゃんと気を遣っておかないと、予期しないところで損ねた信頼が、大きな悪影響のきっかけになるんだろうなぁ、と思った次第です。

 

今回の冬季オリンピック大会に関して、運営側の信頼がこの大会期間中に戻ることはないと思うので、少なくとも僕個人が冷めた目で見続けることは変らないと思いますが、選手の皆様のこれまでの努力や成果には最大限の敬意を表したいと思います。願わくは、疑わしい事態も起きず、残る競技に参加される選手皆様がすっきりとした気持ちで大会を終えることができることを...。

科学は科学であるが、宗教でもある。また、科学を科学であると判断するためには科学的な素養が必要である。

書きたいことはほぼタイトルに書いてしまった気がしますが、自分の考えを詳細に言語化する意味合いで書いてみようと思います。まずは要旨は以下。

  • 科学は科学であるが宗教でもある。個人の道徳や判断基準、倫理観を整形し得るものが宗教や文化と呼ばれるものであり、科学にもその効果があるからだ。
  • 一方で、本物の化学と似非科学は判断が難しい。似非科学を信じることも有害だが、科学を似非科学と判断することもまた有害である。
  • 科学を正しく科学と判断するためには、科学的知見・素養が必要であり、それはある程度、科学に触れたことがない限りは難しい。

さて、ここから先は思いつくままにキーボードを叩いてみよう。皆さんは "科学" と聞いて何を想定されるだろうか?厳密に言うと、"科学" というものの定義は難しい。英語ではサイエンスが科学にあたるわけですが、語源はラテン語の知識という言葉にあるらしい。wikipedia なんかも参照してみると、なるほど確かに、基本的には "体系化された知識" とも言えるし、"物事を説明するもの" とも言える、とは思います。ただ、いかんせんこの世の中は理解しているようで、できていないことが多すぎるのです。よって、"物事を説明する" = 科学という定義はちょっと乱暴が過ぎるんじゃないかなぁ、と。

例えば今はコロナウイルスが世界中で猛威を奮ってるわけですが、ウイルスそのものについて、少なくとも僕個人は正しく理解できている気が全くしません。ウイルスって有害なものばかり取り上げられるので、悪いもの、恐いものという認識がありませんか? でも実は、そうでもないらしいんです。細菌の中でも常在菌と呼ばれる人間と共生している最近が多数ありますが、ウイルスに関してもどうにも人間と共存していて、かつ、人間にとって一定のメリットを与えているものもあるらしい。(ヘルペスウイルスと疲労の関係性の研究で脚光を浴びている慈恵医大の近藤医師が発信されている情報を読んでいただくと、ウイルスというのも奥が深いんだということが垣間見ていただけるのではないかと思うので、これはこれで是非。)

ここで述べたいのはウイルスそのものの話ではなく、ウイルス学も深淵の一端が見えているに過ぎず、10年どころか数年たてば学説がひっくり返るのが当たり前なんだろうなーという点です。

個人的な "科学" の重要な性格は2点あって、一つが "再現可能である" ということ、もう一つが "誤りと訂正を受け入れる" ことにあります。前者は誰が行っても同じことが起きるということ。その再現条件が複雑であったり、日常生活に活かすには現実的でない場合も多々ありますが、条件さえ整えれば、他の誰が行っても同じ結果が担保されているということが科学の一つの定義だと思ってます。もう一つが、反証する内容が提起された場合、それが確かであれば、それを受け入れて次に進むということ。つまりは科学的であるというのは、自分が全知全能ではなく、根本的に無知であるということと、自身の知識は条件付きのものであるということに自覚的であるということが必要だと思うわけです。そのため、新しい発見や、新たな条件が見つかった場合でも、それが正しそうであれば受け入れる。

この2点が科学を従来の宗教との大きな隔絶だと思ってます。宗教はそれぞれの宗教で教義があるわけですが、再現性は担保されていませんし、絶対に否定されない何かが根本にあったりするので。

一方で、科学に宗教的な要素がないか?と言われるとそういうわけでもないと思ってます。数世紀前と比較して、今の人類は従来型の宗教を信仰している人は多くはないでしょう。いずれかの宗教を信仰している人で、宗教行事を行うことがある人でも、自覚・無自覚問わず、科学によって生活や思考が律されている部分が多かれ少なかれあると思うのです。古来の宗教は道徳やルールを定める基準でした。人間が一定数集まって社会を構成すると、何らかのルールやガイドライン、道徳が必要になります。(強力なカリスマ性のある王がその役割を果たすこともあったでしょうが、個人に依存した社会はその個人が喪われると崩壊するので、結果的に個人に依存しない社会が生き残り、その多くが何らかの "宗教的なもの" を持っていたということだろうなーと個人的に理解しています。) 一方の現在、多くのルールやガイドラインは科学的な知見を根拠にしています。個人個人の考え方についても、理科や社会で学んだことを基準にしていることが多々あるでしょう。ということで、従来は宗教が担っていたことを科学がカバーしているわけです。

さて、ここにきて難しいのが、科学と "似非科学" を判断する術の部分です。多くの人が科学を信仰しているわけで、電気や水道の便利さを否定する人は皆無でしょう。ただ、より細かく・新しくなってくると難しくなってきます。よく話題になるのは、ワクチンが有益か有害か、ビーガンという生活スタイル、再生エネルギーと原子力の関係、ホメオパシーが医学と言えるか否か、あたり。新しい科学になればなるほど、厳密性は薄れます。特にワクチンは難しいところでしょう。mRNA 自体の研究は30年以上の歴史があるので有効性は確かだと思いますが、人間に接種して80年経過観察してどうか、は観察実績がないので、新型コロナウイルスに感染した場合の重症化リスクを踏まえて、10歳以下の子供に接種するかどうかを悩む、というのは理解できます。一方で、新型コロナウイルス騒動にビル・ゲイツも持ち出した陰謀論や、ワクチン接種後に1年でゾンビになるとかその手の話は論外だと思ってます。しかし、根本的な問題は、何がどこまで科学的で、どう判断すべきか、という科学的リテラシーが強く問われてしまう事態になっており、このリテラシーの平均値や中央値がどうにも低そうだ、という現実です。

サンプル数が身の回りの1つしかないですが、最近驚いたのが、"整体" を占いや水素水の類と同じ "怪しいもの" に分類している人がいたことです。まぁ、整体師の人の中には理系的思考そのものにアレルギー反応を持っていて、健康になる水を善意でおすすめしてくるタイプの人が一定数いるということも把握はしていますが、整体そのものは体の各所の筋肉のコリや固まった筋膜をリリースすることで、血流促進を促したり、内臓の機能回復を図るというのが基本機能なので、医術的・科学的な再現性があるわけです。整形外科は信じるが、整体は信じないというのは、それはそれで偏った科学信仰だなぁ、と苦笑いしてその場は終わったのですが、これはこれで難しい問題だなーと思ったのです。

科学的な再現性や再現条件、比較するための条件整備、その結果の有意性を判断するための母集団選択や統計的な基準、これらが基礎知識としてある程度備わっていないと、 "新しい科学のような何か" を見たときに、それが科学寄りなのか、似非科学寄りなのかを判断することが難しいんだな、と。そして、この基礎知識を確実に身に着ける術は、ある程度以上、科学的な取り組みを試行すること。まぁ、世の中にはそんなことをせずともこのスキルを身に付けている人も多くいるので、全員が大学の理系学部に行くべき、とまでは言わないんですけどね。とりあえず、皆さんも何か怪しいものを見たときに、その事象・理論の再現性があるか、について気にしてみていただければなーと思った次第です。

メタバースはハイデリンに行き着く

最初に断っておきますが、僕は FF14 をプレーしてません。ついでに FF11 もプレーしてない。攻略サイトを流し読んだり、プレー動画を倍速再生したり、ネットミーム化した各種情報をつまみ食いして恋焦がれはするものの、消費することになるだろうリアル生活を贄に捧げる勇気が出ずにプレーできてないのです。そんな僕がこんなことを語るのもおこがましい気もしますが、どうせチラ裏なので書かせてください。メタバースが行き着く先は FF14 であると...!

 

ブロックチェーンや DX といった数多あるマーケティングバズワードの最新ネタとしてメタバースが活況です。猫も杓子もメタバースGoogleMicrosoftメタバースFacebook にいたっては皆様ご存知の通り社名まで Meta に。技術的なトレンドとはとても言えない。バズワードらしいバズワードになってると思うわけです。だって、中身がないんだもの。セカンドライフの頃から、中身がないんですもの。オンラインのバーチャル空間で何すんの?の答えが20年経っても見つからない。バーチャル空間のブロッカーは技術的な問題やスペック的な問題ではないです。

 

スマホの走りとして初代 iPhone が出た時や、インフラとしてのパブクラが出てきた初期の AWS は明確に、無限の可能性はあるが技術的に足りない点が見えている、というものでした。iPhone ならタッチインターフェースとフルブラウザにアプリという要素はまさにゲームチェンジャーで、より高速な通信規格への対応や、CPU・バッテリーの向上、コンテンツ側が対応すれば世界が激変することが目に見えてました。AWS にしても、慣れないと絶妙に使いづらい Web コンソールやら、共有ディスクが使えないとか、リージョン数が限定されるとか、そこら辺は些末なことで、サクっとグローバルにインターフェースが空いたインフラが従量課金で使えるというのは劇的だったわけです。翻って、メタバースはどうか。

 

セカンドライフを思い出してみましょう。バーチャル空間は見た目は派手ですが、そこで何が変わるか?群がったのは地権屋のデジタル版やら派手さに食いついたマーケ屋さん、投機資材屋さんあたりです。一般人の生活が豊かになるものでも、便利になるものでもない。何が楽しくてわざわざデバイスを使って、現実に好き放題できることを制限つきでやらねばならないのか。

 

数週回って再度再燃しているメタバース、もとい、バーチャル空間フィーバーですが、 Zoom や Teams 等を使ったリモートワークがテック企業を中心に定着したことや、コロナによる物理的コミュニケーションの制限が理由になっていることは理解します。しかしだね、せっかく、空間をデジタル化して現実ではできないこともできるという利点があるのに、現実を模倣してメタバース空間で会議をせねばならないのか。会議するなら、Zoom か Teams で良くない? 反応が見づらいとか、横の人とこそこそと相談・雑談しづらいとか、内職しやすいとか、それは Zoom とか Teams を改良すれば良いでしょう。雑談は個別チャット開けば今でも解決できるし、反応有無はカメラ・センサー群を利用して視点やうなずき等の反応をヒートマップ的なもので表す機能とかでカバーできると思うわけです。それがプライバシーだなんだを持ち出して拒絶されるか否か、というところは別議論。そんなもん、メタバース会議でも一緒だし。

 

技術の進化やデバイスパフォーマンスの向上によってバーチャル空間が受けるメリットは何かというと、表現力やできることが増えるということ。であれば、なおのことリアル空間を模倣する必要がないでしょう。万人の夢、ないしは、世界中の男子の夢は手から火の玉やかめはめ波を打つことであり、大剣を振ってドラゴンを狩ることであり、エルフ耳の美少女とキャッキャウフフすることなわけで、それって FF14 で実現してることじゃね?と思うわけです。夢のようなファンタジー世界で、オンライン空間での多数の仲間たちとともにモンスターを追いかけ、自身の研鑽に励み、狩りや収集をして財を成すと。やっぱりメタバースの行き着く先はヴァナ・ディールでありエオルゼアであり、ハイデリンなんだと思うわけです。ということで、皆さん、誰かがメタバースと言い出したら眉に唾を塗りつつ、スクエニが今後も生き残って理想のバーチャル空間を作り続けてくれるか、その価値を正しく理解した企業に買収してもらえることを祈りませう。